江戸幕府はペリーの来航を知っていた [明治維新]
江戸幕府はペリーの来航を知っていた
1853年(嘉永6年)アメリカのペリー提督が黒船を率いて来航したとき、幕府も庶民もパニックに
陥ったと思いがちですが、江戸幕府はペリーが来航するという情報を一年以上も前からつかんでいたと
ことはあまりしられていません。
諸外国の情報を把握していた
当時、日本は”鎖国状態”だったといっても、長崎を窓口にしてオランダや中国とは交流があり、国際
情勢をめぐる諸外国の情報を幕府は把握していました。
またペリー来航のずいぶん前から日本近海には外国船がたびたび姿を現していましたし、実際同じアメ
リカのビッドルが二隻の軍艦を率いて浦賀に現れ、幕府に通商を要求したこともあったのです。
ペリーの来航を知っていた
さらに幕府はオランダから毎年、「風説書」という報告書を提出してもらい、ペリーの来航についても
その「風説書」によって一年以上前から察知していたのです。
そこには、ペリーがアメリカ大統領の親書を携えて日本に来航、開国を迫る予定が記され、具体的な
要求事項や黒船の数まで正確に報告されており、ペリーの年齢から詳しい経歴まで書かれていたとゆ
うから驚きです。
漂流民の保護と燃料や食料の供給
1854年2月13日ペリー提督率いる米国の黒船艦隊が大砲をちらつかせ再び浦賀沖に現われました。来航
の目的は、「漂流民の保護」「外国船への燃料・食料の供給」「貿易の開始」という3つの要求を日本
に呑ませることでした。
幕府はそれまでも行っていた外国船への燃料や食料の供給のため、長崎のほか下田と箱館(のち函館)
を開くことを新たに認めた。しかし、港における外国人の行動範囲を厳しく制限し、ついに交易は認め
ませんでした。
落ち着いた対応の江戸幕府
「日米和親条約」日本が“無理やり”開国させられ、不平等条約を“押しつけられた”出来事として理解
されていますが、事実はそうではないのです。
事前に詳細な情報を入手していた幕府は、黒船の来航に驚き、いたずらにパニックに陥ったわけでは
なかったのです。
こんなに凄かった江戸時代 [明治維新]
江戸時代の日本は閉鎖的で国際社会から大きく後れをとっていた
というイメージがありますが、意外とそうではないことが最近分か
ってきました。
まず欧州の外国人達を驚かせたのが、江戸の町中に行き届いた上
下水道です。いくつもの水源から水道管が引かれ、下水溝まで完備
していました。
当時の花の都パリでさえ汚水は窓から道路にぶちまかれていたらし
いから、今からすると信じ難い習慣です。
中世、欧州ではコレラやペストが何度も流行っていましたが、日本
ではほとんど伝染病の記録は残っていないのもうなずけます。
さらにリサイクルの面でも進んでいました。
生ごみは汚水と同じく回収され肥料として再利用され、紙はこの時
代すでに古紙回収業者がいました。
道端に落ちる紙屑を拾うのえを生業にする者もいたので町はきれい
でした。
ほかに、贈答品を使い回す「献残屋」ロウソクが溶けて流れたもの
を買い取る「流れ買い屋」独身の男性むけとしての「貸しふんどし
屋」まであったから面白いですね。
そして職人たちの精巧な技術力は当時の世界でもトップレベルで
しょう。
木工や陶器、織工職人の精巧な技術は外国人を驚かせました。特に
すでに時計職人までいたのです。
欧州では産業革命が起こり外国人たちはその技術を日本に来持ち込
んでいますが、蒸気の力や様々な機械は当時の職人たちに模倣、吸
収されて、明治時代の後半では独自に工業製品を生産できるように
なっていました。
明治維新政府が、江戸時代は「進歩がない時代」と強く印象ずけ
ましたが、それは江戸幕府の官僚機構の話で庶民の生活は当時トップ
クラスと言っていのではないでしょうか。